正義

大學で「必要不必要だけで、物事を判断するのは心が貧しい」とのお言葉を頂いて、感化されたので書く。

 

私は基本的にやりたいかやりたくないか、楽しいか楽しくないか、こんな感じで生きてきた。これからもそうするつもりではある。周りの目はちゃんとそれなりに気にしながらね。それでもやらなきゃいけないことが増えていくうちに、やりたいことをやる時間が減るのは当然と言えば当然。頭で分かっちゃ居るんだけど心が疲れてくる。一応優先順位はやらなきゃいけないことから先に振っていく主義だから、時間の余裕も心の余裕もどんどん無くなるし、効率も悪くなってんだな大人になるにつれて。時間が無いから、短い時間で出来る心を満たせる何かに頼るしかないんだけど、それってまあ散財とか暴飲暴食とかに繋がりやすい。しかもそんなの効果が長続きする訳がない。この感じをどう表せば良いんだろうってずっと考えてたんだけど、冒頭の言葉で表せばしっくり来る気がしてる。「心が貧しい」。正にそれだ。何かにワクワクしたりとかあんまりしてないな。

 

同じ教授が「人間の一般的な価値観や倫理なんて時間が経てば移り変わります、吹けば飛ぶようなものですよ」と仰ってた。それは私もそう思ってて、やりたいこと、着たいもの、見たいもの、どれも諦めたくない。自分が望む自分でいる以上の幸せってなんだろうか。至極難しいことなのは百も承知だけど、周りの視線のために自分でそれを諦めるのはすごく悲しいし、勿体無いと思う。例えば「似合わない」と思うものがあるなら、自分で似合わせるようにしていくしかない。それに見合う自分になればいいだけの話だと思うよ。めちゃめちゃ上から目線で無茶な思想を押し付けてる自覚はあるんだけど、こう思わないとやってられない瞬間ってない?人間は無駄に思考力があるせいで不自由すぎるよね。何か一つやろうとするだけで色んな可能性とか選択肢があり過ぎる。人によって正義なんて違うんだから自分の正義に従って生きていきたい。

 

振り回されてるんじゃなくて「振り回されてあげてる」し、弄ばれたんじゃなくて「弄ばれにいった」し、馬鹿にされたんじゃなくて「馬鹿にされてあげてる」んだよって。そういう人間で居たいな。高飛車な発言に聞こえるけど、他人を許せるようになりたいとも思ってる。そうなるまでの過程で私に全く過失が無かったとは言い切れない。そうなるべくしてなってるよって、振り返った所にいる私が言ってんの見えるもん。全部全部かみ締めて良い女になるから、せいぜい今はそこで笑ってて。いつか一方的に許してあげるから。まあそうしたら振り返った所にいる私も許されると思うし。結局は自分本位でごめんね。

 

これだけ偉そうなこと言ったけど、他人の「期待」に答える自分で居たいって言う思想があって当然だとも思うよ。でも周りがどんなに似合わない、らしくないって言ってきたとしても、私だけは絶対応援するから、まずはやってみたら?今は出来なくても、今は似合わなくても、どうしたらなりたい自分になれるか一緒にたくさん考えよ〜